注:知人である竜次氏から頂いたテキストを、そのまま掲載しています。

注:サポート無しの書き逃げ御免とのことで、その点は御了承を。

 

 1月14日付の速水の日記のカタカナ部分を漢字に直したもの。漢字1文字がキで漢字2文字がオニ。オニの方は半分土俗宗教にまで突っ込んだレベルでないと「オニ」とは読まない当てだけどね。

 

 

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 氷室氏の1月3日付日記を読んで、幻想郷に鬼が居ないと言うのならば、その解釈は少々誤解があるんじゃないのかな、どうせ「帰」ではなく「隠形」なだけじゃないのかな? と思っていたのだが、「帰」ではなく「気」の鬼だった。まぁ、「気」であれば当然「隠形」でもあるのだから、半分当たりかな。

 幻想郷は既に幽霊だ半幽霊だがいるのだから「帰」が居ないのは当然だし、その存在の性格上「大師(食人鬼)」も居ない。まぁ、人を食った連中ばかりだが。

 そうすると幻想郷に鬼が入るにはそれはやはり「隠形」または「気」としてだが、「隠形」ではただそこに居る以外何も出来ないので「隠形」にして「気」になるのが正しいだろう。

 エンディングで幻想郷に萃香が残るものもある訳だが、萃香は実体化しているのだから「気」でも「隠形」でもなく、前述の通り「帰」でもない……「大師(食人鬼)」かもしれないが素直な萃香が「大師(食人鬼)」ならば、幻想郷に居るのは全員「大師(食人鬼)」だ。そう考えてみると、幻想郷に鬼が居なければ文献すら少ないのは当然だろう。

 エンディングでやっていること、その能力も含め、幻想郷に残った萃香は「御仁」として存在していると解する。「御仁」は上位の階梯に昇った存在であるから俗に言う鬼ではないと解すれば、萃香が居てなお幻想郷に鬼は居ないことになるが、それはまぁ、こじつけが過ぎるか。

 魔理沙EDでの幻想郷では成果は個人のみに帰属することから類推すると、「気」の鬼が広まることはないから、皆を集めて夜宴を開き「気」を広めて集めて百鬼夜行の成立か。ま、連中は魔だから鬼とは根源が異なるけど、「大師(食人鬼)」みたいな奴等だからな……もとから「気」みたいな奴等でもあるか……と、いうかそれ以前に外から見れば幻想郷の住人は全て「隠形」だ。ふむ、幻想郷の連中の息吹の香りが萃まった「気」の「隠形」が幻想郷の中に居つくのに「御仁」になった、かね。

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 以下、上記日記部分の解説。

 

 まずは基礎知識&基本解説。

 先に押さえておいて欲しい点として、日本の言霊信仰(発音は発怨にして発恩であり、発音された言葉はそれだけで呪詛にして祝詞。字義は同音の字義を含めて霊力を持つ。同時に「呪い」はマジナイともノロイとも読むように、書かれた文字も可変的な霊力を持つ)は重要だよ、と。

 

 で、日記中のキとオニの当て字について。

「帰」は中国式の鬼。文字通り、死人帰り。この場合、霊魂のみ、動く死体、生きている死者全てを差す。

 

「気」は日本式の鬼の一種。所謂「気のせい」といか「悪い気(予感)がする」ときの原因たる気(善気も含む)。

 

「隠形」は「隠人」と同系。ここではオンギョウではなくオニと読む。山の民や天狗、隠れたる名もなき神の類を指す。人型とは限らないので「隠人」を拡張する形で「隠形」を当てる。

 

「御仁」の場合、山に住んだり隠れているとは限らない。およそ衆民にとって良い超常者(賢者・金持ちを含む)は全て「御仁」となる。節分に鬼を呼び込むところは九鬼氏領地のように鬼が支配者(「御仁」)だったり、他所を追われた中で行き場を得た鬼が恩を返し「大師」から「御仁」になった昔話を持つ所。「御仁」は報酬を要求することがあるが、それは仕事に見合う内容か、衆民が十分支払えるレベルの「お供え」で済むもの。通常はゴジンと読むが、鬼の一種としてはオニと読む。

 

「大師」は一般的な意味と、ここで指す意味が乖離しているので、先に「食人鬼」と注釈をつけた。「御仁」と同様、山に住んだり隠れているとは限らないが、「御仁」と異なり贄を要するもの。贄を得て数日〜数年間鎮まるだけのものもいれば、贄を得て1年なりの加護を与えるものも居る。贄は衆民にとって重いものであり、多くは人柱を要する。或いは、衆民に負担できる対価であっても禁忌に触れる贄を要求したり、直接の対価を要求しない場合でも禁忌に触れる行為を為す存在はこちらに分けられる。山賊や海賊の「鬼」はこちら。文字通りの読みのダイシと読むと「御仁」の一部を含むオダイシサマとの絡みでややこしくなるので、ここではオンジの転訛としてオニと当てる。

 元々が贄を要する強力な超常者としての鬼の側面を、一部のオダイシサマから抽出してオンジの「大師」=鬼と当てているために、一般的ではない用語を用いてしまうこととなった。が、「鬼」の字だと区別がつかなくなるので、ここはこれで通すことにする。

 

 

 他にも「大足」(大師はこっちの性格も強い)とかオニの概念はあるが、オニの全容をなぞることが目的ではないし、何より面倒になるのでここまでで略。

 

 

 さて、一般的な概念としての狭義での鬼……人を攫い酒宴を開き鬼ヶ島や鬼ヶ城に住む鬼はここで言う「大師」に属する。

 

 萃夢想においての鬼は、プレイヤーに提示される概念は「大師」を想起させつつ(幻想郷に鬼は居ない)、実際に語られ始める鬼は「気」としてになっている。「今回の宴会は何かおかしい」そんな「気」がする。

 この「気」は、「そんなことはどうでも良い」と投げられて霧散解消されては意味が無い。不安を深め、不安を周囲に伝染させ、不安を現実のものにする(「鬼が出た」状態。不安が現実になった時には鬼は既に人を食った後の状態になるので、過去形で鬼は既に去っている)。

 萃夢想ではプレイヤーは鬼に憑かれた状態にあると言える(「気付く」=「鬼憑く」)。だから「今回の宴会は何かおかしい」という不安の原因の「鬼」に会うとも言える。宴会を続けつつも「楽しければそれで良い」と不安を無視すればその存在を無視された「気」の鬼は認知原則により存在しないことになる。だからプレイヤー以外の幻想郷の面々は気付いている連中もその違和感を無視していると言える。楽天家の世界には「大師」は(存在意義が無く存在が認知されないので)存在し得ないのだから。

 

 この観点から、宴会の一面が見える。無意味に繰り返される宴会という行為への不安(各キャラのスタート時の不安)、その中で見出される自己の立場への不安(萃香シナリオで萃香が対戦前に指摘している)、そういった気を煽り、気を強め、不安は不安を呼び、不安は他人に伝染する。つまり、「気」を濃縮し「鬼」を具現化し、宴を開く(縁を拓く(啓く))ことで他人に伝染させ「気」で界(幻想郷)を満たす。そこは鬼の支配する場所になる。

 また、不安を振りまき、その気で力をつけていた萃香は「気」の鬼の側面を持つ。

 

 

 別の角度からの鬼の話。これも基礎知識。

 鬼は彼岸(あの世)と此岸(この世)の境の狭間に住まうもの。鬼の国はこの境にある。

 例えば、山。山岳信仰における神の領域(彼の世)の山頂と人里の境の山腹(岩窟)に鬼ヶ城はある。

 例えば、海。常世思想における神の領域(彼の世)の沖と海辺の境の島に鬼が島はある。

 

 鬼は境の者=逆意のモノ(天邪鬼だ)=酒井の者

 酒による酩酊は自己の意思を失わせる点で鬼に通じ、ここでシャーマンとしての神霊憑依以外で酒に溺れるとそれは鬼に支配された=酒意に呑まれた者となる。鬼に支配されたものは既に鬼。

 

 一方で鬼は境の者=栄の者。「大師」ではなく「御仁」に昇華すればそれは既に神。

 道祖神や大歳神、地蔵菩薩など当初から神として祀られる「御仁」は多い。神として祀られる「御仁」としての鬼の代表は大歳神の一種のなまはげ。ややマイナーだが道祖神の一種のダイダラボッチ・鹿島様もそう。

 

 ここで、境に住むものはそれだけで鬼と看做される。境とは本来人も神も住むところではない。敢えてそこに住むものは神でも人でもない存在だからだ。人の意にも神の意にも従わない逆意の鬼であり、人からも神からも隠れる「隠形」であり、そんなところに住んでいるということ自体が人に不安を与える「気」である。

 言ってみれば幻想郷の住人は外から見れば、全員鬼だよな、というのは幻想郷自体が境に隠された場所だからだ。同時に、幻想郷の住人は人にあらざるもの、常人を越えた人なので、それ自体が既に鬼足りうる。ただし、幻想郷は鬼の国である境界とは別な幽世(かくりよと読む。隠世と書いても良い。迷い家と言っても良い)なので、狭義での鬼の居て良い場所とは言えない。作中で境界の住人と明言されている紫が萃香と事前に接触し、隠しているのは、紫が境界の住人=鬼としての側面を持ち合わせているからだ、と言える。ただし、紫は「八雲 紫」の名が示すとおり、存在としては「御仁」といえよう。狭義の「鬼」ではない。同時に萃香が居残るエンディングが成立する証左でもある。

 少し話がそれたが、幻想郷の住人は広義での鬼ではあっても、幻想郷は狭義の鬼を排してつくられた界だから、鬼は幻想郷が生まれてから、人が鬼を持ち込むまたは連れ込むまでは鬼は居なかった。

 そして鬼が連れ込まれても、幻想郷の住人達は「気」の鬼……邪気に縛られるような面子でも無いので、鬼は居つけなかった、とも言える。

 その一方で雲散霧消した「気」の鬼は消えたわけではなく、水蒸気のように感知しにくいだけでもある。しかしそれが集まると水滴となって、地中に潜み井吹いてみたり、地表を流れる水河となって、と鬼が入り込む要素はあるし、狭義の鬼が居ないだけで、鬼は幻想郷に溢れている、とも言える。これが幽々子の言っている事。

 余談だが、伊吹萃香は井吹水河(「気」としての鬼)・息吹誰何(「隠形」としての鬼)に掛けた名前だと思われる。

 

 

 

 さらに別の角度から鬼の話。

 これは人攫いと鬼退治という「信頼関係」についてのフォロー。

 

 鬼は人を攫う。それは2つの意味を持つ。

 攫われた人間は純粋に「鬼」となる。個体として新たな鬼となったり鬼の力を増大させる贄となる。

 人を攫われた集落では鬼が生まれる。鬼と言う不安要素、即ち「気」に満ち支配された世界となり、住民は無数の鬼に憑かれた状態になる。

 

 人が攫われると、鬼退治をする。

 日本における鬼退治は、西洋における竜退治同様、英雄生成プログラムの役割を持つ。

 では、英雄とは何か。

 鬼、即ち「御仁」である。

 

 言い換えれば、鬼退治は邪気を祓い善鬼に昇華する行為。或いは、増殖蔓延する悪しき鬼を集結(=終結)させて1人(或いは1団)の「御仁」に昇華させる行為である。

 

 鬼は人を攫い、鬼の存在を明示し、鬼を増殖させることで一切の災厄の原因を引き受け、やがて人に退治されることで一切の災厄を祓い、人々を守護する「御仁」を生み出す。

 

 つまり、氾濫する河川という悪龍が退治されて(治水されて)人に繁栄をもたらす竜神となるのと同じプロセスについて、他の明確な神魔の形態をとらない全てを引き受けている訳だ。

 節分の追儺の豆まきは、新年(立春)の境に現れる無名の鬼を無名の庶民が退治して無名の英雄になるプロセス。

 

 鬼が居ない、というだけでなく、鬼が幻想郷を去った、という記述……「鬼が幻想郷を見捨ててから長い時間が経った」という点についても、この双務関係に拠る。

 鬼の存在意義は人を攫い鬼にする、人は鬼を退治し英雄になるということで、これは「オニ」を「人−御仁」と「鬼−大師」の間で循環させる行為。単純に言えば「鬼ごっこ」。鬼だけでは鬼ごっこは成立しないのと同じ。人が居ない場所に鬼は居ても意味が無い。意味が無い場所は「居る」意味が無い。だから幻想郷を見捨てたのは当然。

 「居る」と鍵括弧付にしたのは、鬼は「居ない」けど存在し続けているから。

 狭義の鬼、「大師」としての個体として実体化した、(自我を持った、とも言える)鬼が去っただけで、「気」としての鬼は存在し続けている。だから鬼は去ったのに香りは拡散しただけで無くなった訳ではないという、矛盾した台詞が成立する。定義の差を利用した叙述トリックみたいなもの。

 この人と鬼の信頼関係という記述は、貧乏神(大師)が長じて福の神(御仁)になる関係になぞらえると、想像し易いかもしれない。

 

 

 

 

 今度は酒呑童子の話。

 酒呑童子の舞台は諸説ある。戸隠山発−大江山着と、伊吹山発−大江山着の2説が有力。

 

 戸隠山は、酒好きで乱暴なために寺に預けられた美男の童子が、その美貌ゆえに多数の女性から想いを寄せられた。が、後にその女性達が次々に死ぬと言う噂が立った。童子は色恋沙汰から距離をとろうと、貰った恋文を全て焼き捨てようとしたところ、恋文を焼いた火の煙に巻かれて気を失い、気が付いた時には鬼になっていたという話。

 

 伊吹山は、美男で人気者だが酒好きの大寺の童子が、酒宴で鬼面を被り鬼踊りを披露した、が、鬼面が外れず、故に寺からも両親からも追われ、そのまま鬼と化した話。

 

 戸隠山は、もてない男達の嫉妬の邪気と、寵愛を得んとする女たちの情念の邪気を一身に引き受けてしまい邪鬼にさせられてしまったという発生。

 伊吹山は、酒を呑んだ上で鬼面を被り鬼踊りをするというシャーマニズム式に自らを鬼と為す行為を(知らずに)やってしまったが為に鬼になってしまったという発生。

 

 両者とも、その出生は皇族や山神の血族という鬼に転化しても仕方が無いものにしてあり、最後は大江山で源頼光たちに討たれることになる。

 

 萃香のスペルカードが「戸隠山投げ」なのは、萃香が幻想郷の住人を「気」の鬼に取り込もうとしていた側面、萃香自身が「気」の鬼でもある点から見て正しい。とかいうのは見方も出来る。

 

 霊夢対萃香は「酒呑童子の鬼退治」なのだが、ここは別シナリオで霊夢が手に入れている酒の出所を気にしていない点を思い出すと良い。

 物語の酒呑童子に戻るが、大江山で酒呑童子は頼光たちが出した「鬼は神通力を失い、人は神通力を得る」神酒で無力化されて退治される。

 霊夢は出所不明の酒を「お神酒でしょ」といって平気で呑んでいる。酒は出所を気にせず呑む酒呑童子と、人鬼入れ替わり(本来は「大師」「御仁」入れ替わりの意味だったが)の神酒、霊夢は人間であること、このあたりを纏めて想像すると非常に面白い。

 

 霊夢は既に鬼(「御仁」)の要件を持っており、鬼退治するまでもない、という見方も出来る(幽々子シナリオの茶の話も参照)。

 或いは、鬼退治は「退治」なので、別に鬼を殺す必要はなく(「大師」を「御仁」に昇華すれば良いのだから)、萃香を霊夢(または魔法(=神通力=鬼の力)使いの人間(=「御仁」)である魔理沙の監督下に置かれればそれで足りる、という見方も出来る。

 

 

 東方世界自体の設定で、霊夢にどこまでの設定が為されていて、その力によるものなのかは判らないが、萃香シナリオで萃香が幻想郷に居られるのは霊夢の力、ということからは、2つの答えが出せる。

 1つは、前述のように、霊夢が「御仁」なので、その監督下にいれば萃香もまた「御仁」であるから。

 もう1つは、境内掃除で霊夢が萃香に出している報酬のように、霊夢という巫女が萃香という神を御するに要する対価が萃香を「大師」と看做さないレベルのものであり、故に萃香は「御仁」と言える、というもの。

 ゲームの流れから言えば前者だが、鬼というものの根本を見れば、後者が早道。

 いずれにせよ「御仁」は狭義の鬼ではないので、存在できる。または鬼であっても「御仁」は存在が許される、というものだろう。そして鬼を「御仁」たらしめているのは……萃香をフルスケールで存在させているのは霊夢の力。

 ところで、魔理沙エンドでは萃香は「気」の鬼のままかもしれない。その代わり、魔理沙1人で完結する――成果は誰にも伝えない云々の魔理沙エンディング参照――から「気」は魔理沙1人分の小さいまま。だから魔理沙エンドの萃香は小さい、という解釈が成り立つ。

 

 漫然と流したけど、解説はこんなもんで。東方をロクに知らなくてもこんな解釈ができるよ〜というお話。真実は幽々子様に訊け。あそこに全部書いてある、ということで投げ。